2018年度 第9回
「ダイバーシティ社会のケーススタディ(3)〜障がい者〜」
NPO法人ふわり 社会福祉法人むそう 理事長 戸枝陽基

一生、福祉の仕事をしようと決めていた


私は1999年に活動を始めて、今20年目くらいです。大学卒業後の7年間は、障がい者の施設で介護職をしていました。当時はバブル絶頂期で、入社して最初のボーナスがいきなり100万円あるような時代でしたので、周囲からは相当変人扱いされました。私自身は、福祉を一生の仕事をしたいと思っていました。そこで、体力がある間に一番大変な現場のメンタリティを実体験したいと考えてのことでした。

近頃は大学の友人と集まると、「当時は変人だと思ったが、起業してうまくいっている。こうなると思っていたのか」と聞かれます。実は、自分の中ではこうなることが一本道で見えていました。

それには、父が大工だった影響が大きかったのだろうと思います。10年間は修行の身だから、つべこべいわずに働け、という感じです。「1万回かんなを引いて何になるんだ」と聞くと、「信頼関係を築くとか、単にいじめとか色々だが、そんなことを考えなくて済むほど信頼できる親方に出会え」、というのが父の考え方でした。10年というのは、3年でそこそこ仕事ができるようになって、その後教えるということまでやって一人前だから、ということです。今どきはいきなり起業する人もいると思いますが、福祉関係は手仕事なので、手から手へと伝えていくことになる。そんなこともあって、最初は現場に入りました。

 

起業に向けて


独立することを父に伝えると、「来てくれと請われるか、自分で起つか以外は辞めるな」と言われました。「後ろ向きな理由で辞めると、落ちるしかないから」という意味でした。現場で学ぶことはもうないと思っていたので、そこで起業したわけです。

退職して一年間は、起業に足りていないことを学ぶため、簿記や労務管理を勉強しました。また、できるだけ事務を効率化したいという思いでパソコンも勉強しました。

当時は「ホームヘルプ」というのがない時代で、家族だけで面倒をみられないという人が相当数ありました。障がい者には、障害年金が月10万円程度国から支給されますので、有償であっても「ヘルパーが入る」という提案をすれば、ビジネスとして成り立つと思っていました。


起業して一年は宣伝をしました。当時、福祉は「施し」として行政がやるもので、お金を払って買うものではないと思われていました。行政には「障がい者を食い物にする悪魔と呼ばれているからやめろ」と言われたりしました。
しばらくすると、強く批判する人は興味のある人だとわかってきました。そこで批判する人の所に行き、何が嫌なのか、何をすれば使ってくれるのかというリサーチをし、サービスをブラッシュアップしていきました。
他に仕事をして収入を得ながらこれをやる手もあったと思いますが、「背水の陣」でないと真剣さも伝わらないし、説得力がないだろうと思っていました。何かをしようと思ったとき、起業で精一杯になると、伸び切ったバネのようにそこで終わってしまいます。起業後の3年間は本当に大変で、想像以上のことが起きるのが経営なので、バネをためる1年にしたのです。

 

ノーマライゼーションを目指して


社会福祉法人になるのは非常に大変ですが、従事者に有利な組合に加入できるなど、労働者の待遇が変わります。障がい者支援は、高齢者支援と異なり、当事者と関わる時間が長期にわたります。職員が長く安定して働かないとうまくいかないと考え、社会福祉法人になりました。

目指したのは「ノーマライゼーション」です。障がい者の生活状況を、障害のない人と可能な限り同じにしていきたい。日本の福祉の中心は施設や病院ですが、そこに人間らしい暮らしはないと思っていました。障がい者一人ひとりの個性や思いを消さないためには、4~5人の単位で働く場所や住まいなども必要です。財産管理や、ヘルパーを育てる仕組みづくり、医療法人との連携などの取組も進めました。

「育む」「経験する」「働く」「住む」を私たちは「4つの柱」と呼んでいます。それぞれの取組が重層的に絡みながら、障害がある人を守ったり、ずっと一緒に生きていくという考えで事業を進めています。


4つの柱に向けて、「制度を勝ち取る」活動も行っています。例えば、障がい者の子どもが特別支援学校に行ったりしますが、夏休みがあります。でも、彼らは遊びに行ったりできない。障がい者の子どもだって夏は真っ黒に日焼けしてほしいと思い、ガイドヘルプを始めました。最初は有料で行いながら、議員や行政との話し合いを進め、今では国の制度になっていて、受益者負担はありません。

何でもまずはマネタイズして、場合によっては受益者負担をして、仕組みを作ってしまう。そして「こんなに困っている人がいる。社会保障にすべきではないか」という話を政治家や行政に伝え、ダメならマスコミを焚き付けて、最後に制度を勝ち取っていく。このような手法で、福祉系の社会起業家として活動をしています。

 

障がい者の「個性」を活かして


障害が重くて企業就労に馴染まない人もいますが、本人たちはお金をもらったらやっぱり嬉しいんですよね。お金を稼いだら褒められるということもよくわかってる。

そんなことがあって、知的障がいの人たちでのラーメン屋さんを始めました。ラーメン屋では湯切り係やスープ係など、工程をバラバラにしています。そうすると、知的理解はどこにもいらない。
自閉症の人も働いていますが、彼らは実はこだわりが非常に強いという「個性」があります。例えば写真を見せるとそれと全く同じにしようとする人がいて、「この写真と同じにトッピングして」と言うとしてくれます。それを最後に、ダウン症の人が笑って持って行く。
水にこだわりが強い自閉症の人は、シンクで水をポチャポチャするのが好きなので、そこに「いじわる」でどんぶりを入れます。怒るんですが、「どんぶりをスポンジでこすったら出していいよ」とか教えると、彼はポチャポチャしたいがためにシンクに入ってくるどんぶりを「やっつける」。そうすると「洗い物をシャキシャキする人」になる。


彼は、学校では流しで水を撒いては先生に抑え込まれてパニックになっていたそうです。
こだわりや特性のある障がい者を「直す」のではなく、それをやっていただく。足のない人に、足を生やせとは言わないでしょう。知的障がいは脳の機能に障がいがあって、克服できないから手帳が出ているわけで、そこは諦める。その上でできることは何か、どう活かせば生産性につなげられるかを考え、環境づくりをする。これが私たちの考え方です。「障害を克服した」ではなく、「障害があるのにこんなことをした」というのが正しい日本語のはずです。トレーニングをするのでなく、環境を整備するのが我々の仕事なのです。

今は、医療的ケア児に力を入れています。昔は助からなかった子どもが助かるようになりましたが、手術などの処置が終わると、退院して自宅で過ごすことになります。その時から、家族は24時間体制でケアをすることになりますが、これがとにかく大変です。
障がい者にあてはまらないので、様々な支援が受けられずにいます。これを何とかしたいと思い、活動を行っています。

 

受講者へのメッセージ


自分の組織なので、何かを発信しても自分に返ってくるだけで、誰かに迷惑をかけないという意味では、責任は重いけれど、起業して自由になったと思います。
ラーメン屋は、障がい者がやるから大変なんです。ただ自分で儲けるだけなら簡単だと思っています。そうではなくて、例えば「無価値だ」なんて言う人もいる障がい者のみんなが働いて輝いているのを、誰かが認めて褒めてくれた時に、ぞくぞくするんです。金はあったほうがいいし、こだわってもいますが、感動体験がしたいからこういう仕事しています。もしかしたら社会起業系の面白さはそこにあるのかもしれません。

これは、自分の価値観の軸がどこにあるかだと思います。この「ゾクゾク」より面白いことがあれば、それをやると思います。「ゾクゾク」を再生産したいと思うからがんばれる、一つゾクゾクがあると、もっとゾクゾクしたい。自分の価値観の軸をよく考えてほしい。もしそれが金だけでないのなら、福祉は感謝される仕事なので良いと思います。