「わからない」が増幅させる不安
先の参院選ではにわかに「外国人問題」が争点に浮上し、あたかも外国人の存在自体に問題があるような主張も展開されました。事実とは異なる情報で不安を煽る行為は断じて許されるものではありません。一方で急増する外国人に戸惑いを覚える人が少なからずいることも事実であり、「排外主義はけしからん」と良心に訴えるだけでは人々の不安の解消にはつながらないこともわかりました。人はなぜ誤った情報に操られ、社会を彼我に分けて他者を排除する行動を取ってしまのでしょうか。
横浜市が関東大震災から3年後にまとめた震災誌には、震災当時市長だった渡邉勝三郎の次のような回想が書かれています。「鮮人襲来のごとき荒唐無稽なる流言蜚語が行われたのは、予が平塚を出発した当時からであった。予はそれを聞いたとき、淳厚単純なる地方民が徒らに宣伝から宣伝を生んだ虚構の説であるを感じ、知的洗練を経た都市人の一笑に黙殺し去ったものであろうと思っていた。勿論横濱市が此の不詳なる蜚語の源泉であろうとは感ぜず、又之が為に全市が地震以上の無秩序と混乱におかれていようとは夢想だにしなかった」*
関東大震災が発生したとき渡邉市長は避暑先の平塚におり、翌日に横浜へ戻る車の中で朝鮮人に対する流言により市が混乱に陥っていることを知りました。市長も夢想だにしなかった無秩序と混乱が起きてしまったのはなぜでしょうか。
震災当時の日本は第一次大戦の活況から一転して不況に陥り、シベリア出兵の失敗や朝鮮・台湾で独立運動が活発化するなど、内憂外患の状態でした。1910年の日韓併合を経て日本で暮らす朝鮮人は漸増していましたが、1920年にはまだ全国で4万人でした。しかし1922年12月に日本への渡航に必要だった旅行証明書が廃止され、1923年には13万人に急増しました。旅行証明書は当初は独立運動を扇動する者への取り締まり策として導入されたものでしたが、差別の撤廃と人権擁護の視点から廃止されました。
低迷する景気と社会不安に日本へ渡航する朝鮮人の急増が重なったタイミングで関東大震災が起きてしまいました。朝鮮人などへの殺傷は一部の排外主義者の手によって行われたのではなく、震災前からあった不安に煽られた市民の手によって起きたものです。外国人の急増と景気の低迷、そして排外主義を扇動する勢力が民意を得たと主張する今日、「あれは100年前の出来事であっていまは大丈夫」と言える自信は、私にはありません。
まもなく9月1日がやってきます。状況の急激な変化や「よくわからない」ことに、人々は漠然とした不安を覚えます。「わからない」への不安は、排外主義に利用されます。ふだんから異なる他者との顔の見える関係を構築して「わからない」をなくし、不安の増幅を抑える取り組みを急ぎたいところです。
*横浜市市史編纂係『横浜市震災誌 第1冊』(1926)横浜市のP67-68から、原文のまま記載しました。
ダイバーシティ研究所 代表理事
田村太郎