“まちを取り戻すプロセス”としての復興
今年の1月17日は阪神・淡路大震災から30年の節目ということで、いくつかの取材を受けました。そのうちの共同通信さんから配信されたインタビュー記事が、1月17日をはさんでいくつかの地方紙で掲載されました。阪神・淡路大震災直後から行政とNPOとの連携による復興のプロセスに学んだことをお話しし、記者の方がわかりやすくまとめてくださいました。いまも検索すると読める記事がありますので、ぜひお読みください。
私は、復興とは「被災した人たちが自分たちの手でまちを取り戻すプロセス」だと思っています。例え結果が同じであっても、外の人にあてがわれたまちであっては復興したという気持ちにはなれません。また復興は永遠にプロセスであり、「○○が完成したから復興が完了」というものでもありません。まちの復興を考えるとき、入口はあっても出口はない、と私は常々お話ししています。先のインタビュー記事でも一部で「復興に出口なし」と見出しを打ってくださった新聞社もありました(掲載社によって見出しは異なるようです)。もちろん、個人のレベルでは「もう復興した」と思える日が来たらそれはそれで出口があってもよいのです。まち全体を見据えたときには、何かが完成したら出口というものはなく、自らが選択して新しい生活を取り戻すことができるかどうかが重要なのです。
かつては被災前の人口を回復した、売上高や流入客数が上回ったという客観的な指標が復興の“めやす”になりました。災害が発生しなくても人口は減少し、地域の経済がシュリンクしていくなか、何を持って復興したとするのかは難しくなっています。ハードの復旧や人口・経済面での回復も大切ですが、自分たちのまちが復興してきたと感じられるかどうかは、そこに暮らす人々が自らの手でまちを取り戻していくプロセスそのものにあると私は考えます。
私がそうした考えに立っている原点の1つは、震災直後に「阪神・淡路大震災地元NGO救援連絡会議」を立ち上げた草地賢一さんのもとで、外国人支援の分科会や「市民とNGOの『防災』国際フォーラム」の事務局を担当したことにあります。草地さんは国際協力のNGOの代表として海外の支援事情にも詳しく、「災害時は外から来た人たちがコントロールしたがる。被災者支援は地元でコーディネートしなければならない」と言い続けていました。
確かに当時の神戸には「外から来た人たち」がたくさんいて、魅力的な提案を次々と投げつけていました。私は「そんな魅力的なことが実現するなら、みなさんの地元でされたらどうですか」と言い返したものでした。「外から来た人」が被災地に移住して「地元の人」となり、その後の復興にも深く携わった人もいます。それは良いのです。でも、外から来た人が地元の人の先回りをして、被災された方々をはじめとするいわゆる当事者の参画や、失われたものを取り戻すプロセスを阻害するような関わり方は避けなければならない。
政府による防災庁設置に向けた準備が始まりました。シュリンクする地域の実情に沿った必要な支援のありようについて、国がイニシアチブを取って議論することは重要です。一方で私は中央に権限を集中させるより、地元に権限を委ねる方向に議論が進むことを期待しています。被災地の復興とは、国がモノやヒトを送りこんで進めることではありません。住民が自分のまちを取り戻すプロセスそのものが復興であり、そのプロセスをどう支えるかという視点をもって多くの人が被災地に関わる機会を創出することが国の役割ではないでしょうか。スピードとボリュームを優先するあまり多様なニーズが後回しにされたり、自分たちの手でまちを取り戻したと感じられないような復興が進んだりすることのないよう、今後の災害対応に目を凝らしていきたいものです。
ダイバーシティ研究所 代表理事
田村太郎