終わりと始まり
先月、実父が他界しました。
3年ほど前から入退院を繰り返していたのですが、2月初めに入院してから容態が日に日に悪化していきました。3月28日に死去し、3月31日に通夜、4月1日に葬儀と、年度の節目に合わせるように見送りました。
父は終戦間近の1945年7月に西宮で産まれました。よく祖母が「防空壕で生まれた」と言ってましたが、真偽のほどはわかりません。戦後の厳しい時代に7人兄弟の下から2人目という立ち位置で育ったため、とにかく食べるのが速かった。私が食べるのが速いのは、父の影響が多分にあります。
正月に発生した能登半島地震の支援に関わっており、いよいよ厳しいと聞かされた3月からは父の容態を気にしつつ、それでも現地通いを続けていました。父が亡くなったという第1報は、支援活動で出たゴミを金沢で処理している最中に届きました。大学入試の願書を出しておきながら卒業したら働いて海外放浪の旅に出ると言ったときも、阪神大震災で支援活動に邁進して家を飛び出したときも、父はとくに私を咎めることはありませんでした。死に目に立ち会えなかったことも、おそらく父は「しゃあないなあ」と思っていることでしょう。
さて、能登半島です。4月に入ってから現地にいる支援者の数がめっきり減ったように感じます。一方、暖かくなってきたことや水道が復旧しはじめたことから、避難先から戻って来られる方々はこれから増えていく見込みです。倒壊した家屋はほとんど片付いていませんし、仮設住宅があちこちに建ち始めた以外は被災地の光景はあまり変化がありません。緊急期のニーズは収束しても被災地のニーズがなくなったわけではなく、過去の災害での経験からも、世の中の関心が薄れていくこれからのタイミングで必要となる支援にどう応えていくのかがとても大切だと思っています。
ひとつの出来事の「終わり」は次の出来事の「始まり」につながっているのだと、父の死を経て改めて感じました。フェーズが変わるという言葉にも共通するかもしれませんが、何かが終わるということは何かが始まるということと表裏一体なのではないでしょうか。地震からまもなく4ヶ月を迎える能登半島では、見えにくくなっている被災された世帯のニーズに改めて耳をすまし、これから先の見通しを立てるための支援が必要です。
当研究所でも地元の自治体や支援団体と連携しながら、今後も能登半島の復旧・復興に携わっていく予定です。今後もみなさんからのご協力やご助言をいただけますとありがたいです。
2024年4月25日
一般財団法人ダイバーシティ研究所 代表理事
田村太郎